ブログ 日光街道ヘロヘロ旅

旧日光街道を歩いています。

日光道中日本橋 その23

日本橋の巻を終えるために区切りの休憩したいな~と思いながら、都道464号を進むと国道4号。
、高架の下に鳥居が!
とうとう素盞雄(すさのお)神社まで来ちゃった。(^-^;
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延暦14年(795)素盞雄大神&飛鳥大神の二柱の神が降臨した奇岩を祀って創建したという古社です。
往時は牛頭天王(ごずてんのう)&飛鳥社と呼ばれていました。

石橋宿→宇都宮宿

一昨日の金曜日に日光道中二十一次の石橋宿~宇都宮宿を歩きました。
日光街道歩きの7日目。
駅だとJR宇都宮線自治医大駅から宇都宮駅まで。
歩いた距離は寄り道含めて28.2km、9時間10分の旅。
歩数は36,261歩。

北関東は暑いので、前回は曇りの日を狙って、半袖Tシャツ&短パンで歩きました。
午後はちょっと晴れてバテ気味になりましたが、当日の最高気温は30.7℃で、それほどキビシい歩きではありませんでした。
しかし、今回は晴れの日を避けていたら台風が続いて、青春18きっぷの期限も迫ってしまって、晴天で予想最高気温32℃の日になってしまいました。
実際の最高気温は30.8℃で、空気が乾燥していたので風が心地よくて助かりました。
しかし、水飲みが少なかったり、休憩を取らなかったり、が響いたのか?前回よりもバテてしまいました。(^-^;

今回も旧道や廃道があるので、事前にルート&立ち寄りポイントを作成しました。
もう日光街道に限らず紙の地図は使わないでしょうね。
歩いている時にスマホが壊れないように祈るばかりです。(^-^;

今回は宿場を3宿歩きました。

まずは石橋宿。
前回はゴールが日没後で暗くなってしまい、しかも旧道上で下野市役所が通せんぼしているので、市庁舎の南口で終わりました。
今回は市庁舎の中を通るために、わざわざ平日の街道歩きです。
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案内図では市庁舎の出入り口が3カ所あります。
日光街道上の南口、国道沿いで市庁舎正面の東口、裏口に当たる西口だけで、北口はありません。
残念ながら西口から出ました。
しかし、案内図を見て北口がないという先入観で気がつかなかったですが、北側に非常口のドアがあります。
鍵がかかっていたけど、内側からなら鍵を外せるかも?…ってゆーか、係の人に日光街道を歩きたいと言えばドアを開けてくれるならイイんですが。
次に歩く旅人におまかせします。(^-^;
中山道熊谷宿の旧道上に建っている八木橋百貨店は偉大です。
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(北口も作って!)

石橋宿は、ネットだと本陣跡や脇本陣跡などの場所が分かるけど、標識や案内板はありません。
下野市には石橋宿と1つ手前の小金井宿があるけど、どちらも宿場関係の標識や案内板はありません。
市役所が史跡である日光街道の旧道を潰しているくらいなので、宿場の案内板なんて作らないよな~と思いたくなっちゃうけど、もう少し文化財の保護や観光にも力を入れてほしいですね。
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(石橋宿の中心地で、脇本陣跡の伊沢写真館)

続いて雀宮宿。
雀宮宿はちょうど国道4号の道幅を広げている工事中で昔の面影はありません。
雀宮宿は宇都宮市で本陣跡の碑が建っていますが、そのほかの宿場関係や一里塚跡などの標識や案内板はありません。
地元の東海道戸塚宿も旧国道1号沿いで駅前の再開発もあって宿場の面影は全くありません。
下野国の宿場は天下の国道4号が縦断しているので、宿場の面影を残すこと自体が難しいでしょうね。
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(雀宮神社を過ぎると、東京から100kmのキロポスト)

そして宇都宮宿。
久しぶりの大都市。
日焼けして文字が薄くなっているものの案内板が充実して県庁所在地の風格です。
黒い雲が出てきて夕立になりそうなのと、前回のように日没後に到着することを避けるために、立ち寄る史跡を2カ所ほど割愛しました。
しかし、平日の夕方。
人と車の帰宅ラッシュの時間で写真撮影が大変!
日光街道奥州街道の追分やゴール近くの一里塚跡の付近は特に時間がかかりました。
日没前に今回のゴール:桂林寺に着きましたが、宇都宮駅に向かっている途中に雨に降られました。
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(往時の追分 左が日光街道と真っ直ぐな奥州街道

次回はいよいよ杉並木とご対面です。

日光道中日本橋 その22

小塚原回向院本堂の奥に進むと墓地。
史跡エリアと一般墓地とかれているので注意。
史跡エリアには、安政の大獄桜田門外の変などで刑死した歴史上の人物が葬られています。
景岳橋本君碑が区登録有形文化財安政の大獄安政6年(1859)に斬首となった吉田松陰の墓・橋本左内の墓・頼三樹三郎の墓が区登録史跡となっています。
その他にも、鼠小僧や高橋お伝などの墓があります。
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吉田松陰の墓)

日光道中日本橋 その21

JR常磐線をくぐると小塚原回向院があります。
寛文7年(1667)刑死者の菩提を弔うために、本所回向院(現在の両国回向院)の別院として、常行堂を創建したのがはじまり。
当山は小塚原の刑場跡として区指定史跡となっています。
延命寺も刑場跡ですが、元は当山の境内で、常磐線の線路で分断されているため、昭和57年(1982)延命寺として独立しました。

ダンな山門の横に吉展地蔵尊
吉展ちゃん誘拐殺人事件の遺族が奉納したお地蔵さまです。
本堂の壁に区登録史跡観臓記念碑。
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明和8年(1771)杉田玄白前野良沢らが小塚原の刑場で刑死者の腑分けに立会い、その後の「解体新書」の翻訳につながります。
大正11年(1922)腑分け立会いを記念して観臓記念碑が建立されました。
しかし、戦災で破損。
本堂の新築に伴い現在の場所に設置されました。

日光道中日本橋 その20

公衆トイレがあるのでありがたいけど、南千住駅周辺にはベンチがないので先へ進む…ってゆーか、駅の向かいに延命寺があります。
この付近は東海道品川宿の鈴ヶ森と並ぶ小塚原刑場があったところ。
境内には、寛保元年(1741)刑死者の菩提を弔うために建てられた、デッカい首切地蔵が鎮座しています。
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元はもっと南側に安置されていたそうだけど、隅田川線が明治29年(1896)に開業したので現在地に移されました。
区指定有形文化財

日光道中日本橋 その19

都道464号に戻って先を進みます。
泪橋交差点で都道306号「明治通り」を過ぎると荒川区
すると、目の前に南千住駅前歩道橋がデ~ン
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だだっ広い隅田川貨物線の線路を越えると東京メトロ日比谷線南千住駅南口に出ます。
駅前のベンチで休憩がてら、日本橋の巻を終えようと思ったら、あれ?ベンチってないのね…ガクッ。

間々田宿→小金井宿

昨日8月11日山の日に日光道中二十一次の間々田宿~小金井宿を歩きました。
日光街道歩きの6日目。
駅だとJR宇都宮線間々田駅から自治医大駅まで。
歩いた距離は寄り道含めて31.4km、10時間50分の旅。
歩数は41,752歩で、日光街道を6回歩いた中で一番歩きました。

今回は日光街道を6回歩いた中で、初めて試したことがあります。
今まで日光街道歩きでは教科書としている『今昔三道中独案内』の地図をコピーして歩いていましたが、今回はスマホの地図アプリを利用しました。
今回のルートは国道4号を離れて旧道や廃道になっているところが多いので、PCの地図でルートを描いてスマホに転送、立ち寄る神社仏閣名所旧跡のポイントを地図に付け足して、もう完璧で迷子になることもありません。
前回の古河宿で予定していた頼政神社に寄り忘れたので、今回は寄り忘れがないように手間をかけました。
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しかし、立ち寄るポイントを全て立ち寄ったら時間がかかりすぎて、日没後も歩くことになり、ゴール地点の少し手前の下野市役所で旧道が消滅していたので、市役所で終了。
PCで作成したルートの距離は17.7kmだったのに、寄り道が含まれているとはいえ30km越えなのでビックリ!(◎o◎)
終点に着いたのが真っ暗…というのは、中山道の時に何回かあったので久しぶりです。
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本来は7月の梅雨の曇り空で、それほど暑くない日に歩こうと思っていたものの、1年で一番暑い真夏になってしまいました。
8月は熱中症のことを考えてなるべく歩かないのですが、予報で昨日の最高気温が低めなので出かけてみました。
おらは日焼けに弱いので、夏でも長袖Tシャツ&長パンで歩いてますが、今回は曇りの予報だったので、半袖Tシャツ&短パンで歩いてみました。
15時頃から晴れてちょっとバテ気味になりましたが、日焼け止めを塗っているので腕やふくらはぎがヒリヒリすることはなかったです。

今回は宿場を4宿歩きました。

まずは間々田宿。
日光道中の宿場は国道4号が通っているので、間々田宿も宿場の面影はありません。
一番の見どころは間々田八幡宮
鬱蒼とした社叢に囲まれて静かな古社です。
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(間々田八幡宮

メインの小山宿。
今回一番大きな街で見どころが多く、一番寄り道しました。(^-^;
須賀神社から小山市役所の小山評定跡・御殿跡を経由して小山城(祇園城)跡まで。
行って帰るだけなら往復2kmくらいですが、1時間10分かかりました。
しかし、小山市は観光にあまり関心がないようで、案内板が非常に少ない。
間々田宿には本陣跡や間々田八幡宮一の鳥居に間々田八幡宮の案内板が設置してありますが、これは小山市ではなくて間々田商工会・小山歴史研究会が設置したものです。
小山市のサイトも他の市町村と違って、文化財リストや見どころのページがありません。
小山市はどうも内向きで、観光客を拒んでいるかのようです。
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(小山城から臨む思川)

そして新田宿。
小山宿と小金井宿に挟まれた小っちゃい宿場で、宿場の面影はありません。
当宿も案内板はなく、予習していないと宿場だと気がつかないでスルーしちゃいそう。
しかし、街道沿いの民家に屋号が掲げてあるので感激しました。
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(新田宿本陣跡の青木家)

最後の小金井宿。
今回は日光道中の旧道が残っているところや消滅したところが継ぎはぎ状態ですが、小金井宿の手前の旧道は長い区間を歩けます。
しかし、小金井一里塚の手前が畑になっていて非常に惜しい。
昨日の日の入りは18:37。
小金井一里塚に着いたのは18:10頃。
あとは駆け足状態で立ち寄るのに時間がかけられませんでしたが、下野市も案内板がありません。
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(小金井一里塚の手前は畑)

終点は自治医大駅をちょっと過ぎた笹原の立場があったところの予定だったけど、旧道の上にまさかの下野市役所が建っていて、旧道消滅。
暗いし進めないしで、予定の手前で旅を終えました。
中山道熊谷宿で中山道の上に建っている八木橋百貨店は、店内に中山道の道筋が残っていて、営業時間内なら通れます。
下野市役所も日光街道の道筋の通りに歩けるのかな?と思ったら、入口は旧道上にありますが、出口は道筋から離れているようです。

役所というのは、日光街道の旧道のような史跡を残す立場なのに、捨てて消し去ってしまうのはいかがなものか。
小山市下野市も、市民の生活が第1だと思うけど、観光や文化財の保護にももう少し力を入れてほしいです。
次回は下野市役所からスタートするので、できれば開庁日に役所内を歩いてみたいな~。

日光道中日本橋 その18

東禅寺の帰り。
向かう時は気がつかなかったけど、「南無馬頭観世音菩薩」の幟が旗めいています。
何だろう?と思って、ビルと民家の間を入ると駿馬塚。
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案内板によると、康平年間(1058~64)源義家陸奥へ向かう際、この地で愛馬青海原が絶命したので葬った所だそう。
「江戸名所図会」には土饅頭型の塚の挿絵が載っているけど、今は石碑や石造五重塔の残骸などがあるだけです。
しかし、覆屋が建てられ大事にされているね~。

日光道中日本橋 その17

東禅寺の境内の片隅に夫婦の銅像が並んでいます。
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麺麭祖と書かれたプレートがあるので、麺業界の功労者の像と思って写真を家に持ち帰ったら、何と!「麺麭」はパンのことで、銅像は明治2年(1869)に創業した木村屋總本店の創業者:木村安兵衛♥ブン夫妻でした。
一般にパン祖と呼ばれているのは江川英龍(伊豆韮山代官&韮山反射炉の生みの親)で、天保13年(1842)兵糧として自宅でパンを焼いているので、木村屋の創業よりも古い。
しかし、木村屋はパン業界一番の老舗で、みんなが好きなあんぱんは安兵衛が発明したものなので、みんなで安兵衛を「あんぱんの父」と呼ぼうよ。\(^-^)/

日光道中日本橋 その16

都道464号に戻り先を進みます。
名前のない交差点から路地に入ると、突き当たりに東禅寺があります。
その正面に銅造地蔵菩薩坐像がド~ンと鎮座。
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江戸六地蔵の1つで、宝永7年(1710)に建立されました。
都指定有形文化財です。