徳次郎宿→
体育の日に日光道中二十一次の徳次郎宿を歩きました。\(^-^)/
日光街道歩きの8日目。
公共交通だとJR宇都宮駅から関東バス石那田停留所まで。
歩いた距離は寄り道含めて21.2km、7時間15分の旅。
歩数は27,381歩。
前回は9月で28.2km、9時間10分歩いたので、日が短くなったのが実感できます。
今回は晴れの予報がおおむね曇りで、最高気温も20℃にならなかったので、歩くのにはいい季候でした。
濡れ手拭いを首に巻くこともなく、飲み物も家から持ってきた水筒の水だけで過ごせました。
宇都宮市街を抜けて国道119号に合流すると、ゴールの石那田までずっと国道119号を歩くことになります。
はじめは片側2車線だったのが、40分ほどで日光桜並木の片側1車線となります。
そう、はじめは桜並木ですが、今回のルートから杉並木が現れます。
日光杉並木といっても、杉並木の中は車道で、残念ながら歩行者は歩けません。
杉並木の外側の一段高くなった歩道を歩きます。
杉並木の中を歩くのは、次回の大沢宿の巻までおあずけ。
(歩行者は杉並木の外側を歩きます(>_<))
徳次郎宿は個性的な宿場で、宿場といえば格子戸の民家が街道に面しているものだけど、徳次郎宿は大谷石・大谷石・大谷石!
宇都宮宿を過ぎて郊外になると大谷石の塀や蔵が散見されるようになるけど、徳次郎宿は塀も蔵もみーんな大谷石みたいな。
さすが地元で、住む家自体が大谷石という豪華なお宅もあります。
(下徳次郎の仮本陣跡)
徳次郎宿は1つの宿場が上中下の3つに分かれて…ってゆーか、3つの集落が徳次郎という宿場を構成しています。
上中下の徳次郎にそれぞれ本陣や脇本陣があり、仮本陣ってのもあります。
今回の徳次郎宿の巻は3つの宿場を歩いたような感覚です。
(これは宿場とは関係ないけど徳次郎城跡)
あと、今回は「跡」の付かない現存する一里塚が3カ所ありました。
修復整備されていて江戸時代の姿がそのまま残っているわけではないので、小金井一里塚のように国の史跡ではないけど、やはりモッコリしている一里塚はイイものですね。
(石那田(六本木)一里塚)
ゴールの日光東照宮まであと20kmちょっと。
健脚の旅人はあと1回でゴールですが、おらはあと2回歩きます。(^-^;
日光道中千住宿 その01
素盞雄(すさのお)神社では、境内を散策したり、ご朱印いただいたり、休憩したり。
ツイッターでつぶやくようになってから、つぶやいている時間が半ば休憩しているようなもので、改まって休憩をしなくなってきたけど、ベンチがあるのでようやく15分休憩。
11:15千住宿の巻スタート。
素盞雄神社を出るとすぐに千住大橋。
初めて架けられたのは文禄3年(1594)です。
現在の橋は関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927)木橋から鉄橋へと架け替えられました。
タイドアーチ橋としては日本最古です。
その後国道4号の交通量が増え、昭和48年(1973)上り車線専用の新橋が増設されました。
千住大橋旧橋は下り専用となって何だか小っちゃく見えるけど、橋名板にはド~ンと「大橋」と書かれていて、近くで見るとなかなか重厚です。
日光道中日本橋 おしまい
千住といえば松尾芭蕉「おくのほそ道」の矢立初めの地。
松尾芭蕉の碑が建っています。
文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に建てられました。
千住が矢立初めの地といっても、船に乗った芭蕉が千住に降り立ったのは、宿場のある向こう岸と思うけど、当社の祭神:素盞雄大神は、俳句じゃないけど、日本で初めて和歌を詠んだ神さまなので、句碑が建てられたのかな?(^-^;
区指定有形文化財。
あ!素盞雄神社に文化財が多いからといって、ついフツーに散策しちゃった!
サッサと日本橋の巻を〆なくちゃ。
ということで、11:00日光道中日本橋の旅はこれでおしまい。
これからご朱印いただかなくちゃ。
当社はその他にも文化財はあるけど、詳しくは地元の方にお任せします。(^-^;
日本橋→の所要時間 4時間15分(休憩除いた正味時間 3時間50分)
万歩計Rの歩数 15,495歩
日光道中日本橋 その25
素盞雄(すさのお)神社の文化財。
続いて、境内の隅に集められた石仏群の右側3基が庚申塔群三基(寛永十三年銘他)。
庚申塔は左から、延宝6年(1678)・寛文13年(1673)・文化8年(1811)のものです。
区指定有形民族文化財。
日光道中日本橋 その24
素盞雄(すさのお)神社は歴史が古い分、文化財がいっぱい。
まずは富士塚で区指定記念物・史跡。
由緒で二柱の神が降臨したという奇岩:瑞光石の周りに玉垣を築いて、元治元年(1864)に浅間(せんげん)神社を祀ったものです。
鳥居の奥に溶岩を集めたミニ富士があるけど、鳥居の下に竹柵が置かれているので登れません。
地味。
石橋宿→宇都宮宿
一昨日の金曜日に日光道中二十一次の石橋宿~宇都宮宿を歩きました。
日光街道歩きの7日目。
駅だとJR宇都宮線自治医大駅から宇都宮駅まで。
歩いた距離は寄り道含めて28.2km、9時間10分の旅。
歩数は36,261歩。
北関東は暑いので、前回は曇りの日を狙って、半袖Tシャツ&短パンで歩きました。
午後はちょっと晴れてバテ気味になりましたが、当日の最高気温は30.7℃で、それほどキビシい歩きではありませんでした。
しかし、今回は晴れの日を避けていたら台風が続いて、青春18きっぷの期限も迫ってしまって、晴天で予想最高気温32℃の日になってしまいました。
実際の最高気温は30.8℃で、空気が乾燥していたので風が心地よくて助かりました。
しかし、水飲みが少なかったり、休憩を取らなかったり、が響いたのか?前回よりもバテてしまいました。(^-^;
今回も旧道や廃道があるので、事前にルート&立ち寄りポイントを作成しました。
もう日光街道に限らず紙の地図は使わないでしょうね。
歩いている時にスマホが壊れないように祈るばかりです。(^-^;
今回は宿場を3宿歩きました。
まずは石橋宿。
前回はゴールが日没後で暗くなってしまい、しかも旧道上で下野市役所が通せんぼしているので、市庁舎の南口で終わりました。
今回は市庁舎の中を通るために、わざわざ平日の街道歩きです。
案内図では市庁舎の出入り口が3カ所あります。
日光街道上の南口、国道沿いで市庁舎正面の東口、裏口に当たる西口だけで、北口はありません。
残念ながら西口から出ました。
しかし、案内図を見て北口がないという先入観で気がつかなかったですが、北側に非常口のドアがあります。
鍵がかかっていたけど、内側からなら鍵を外せるかも?…ってゆーか、係の人に日光街道を歩きたいと言えばドアを開けてくれるならイイんですが。
次に歩く旅人におまかせします。(^-^;
中山道熊谷宿の旧道上に建っている八木橋百貨店は偉大です。
(北口も作って!)
石橋宿は、ネットだと本陣跡や脇本陣跡などの場所が分かるけど、標識や案内板はありません。
下野市には石橋宿と1つ手前の小金井宿があるけど、どちらも宿場関係の標識や案内板はありません。
市役所が史跡である日光街道の旧道を潰しているくらいなので、宿場の案内板なんて作らないよな~と思いたくなっちゃうけど、もう少し文化財の保護や観光にも力を入れてほしいですね。
(石橋宿の中心地で、脇本陣跡の伊沢写真館)
続いて雀宮宿。
雀宮宿はちょうど国道4号の道幅を広げている工事中で昔の面影はありません。
雀宮宿は宇都宮市で本陣跡の碑が建っていますが、そのほかの宿場関係や一里塚跡などの標識や案内板はありません。
地元の東海道戸塚宿も旧国道1号沿いで駅前の再開発もあって宿場の面影は全くありません。
下野国の宿場は天下の国道4号が縦断しているので、宿場の面影を残すこと自体が難しいでしょうね。
(雀宮神社を過ぎると、東京から100kmのキロポスト)
そして宇都宮宿。
久しぶりの大都市。
日焼けして文字が薄くなっているものの案内板が充実して県庁所在地の風格です。
黒い雲が出てきて夕立になりそうなのと、前回のように日没後に到着することを避けるために、立ち寄る史跡を2カ所ほど割愛しました。
しかし、平日の夕方。
人と車の帰宅ラッシュの時間で写真撮影が大変!
日光街道と奥州街道の追分やゴール近くの一里塚跡の付近は特に時間がかかりました。
日没前に今回のゴール:桂林寺に着きましたが、宇都宮駅に向かっている途中に雨に降られました。
(往時の追分 左が日光街道と真っ直ぐな奥州街道)
次回はいよいよ杉並木とご対面です。
日光道中日本橋 その21
JR常磐線をくぐると小塚原回向院があります。
寛文7年(1667)刑死者の菩提を弔うために、本所回向院(現在の両国回向院)の別院として、常行堂を創建したのがはじまり。
当山は小塚原の刑場跡として区指定史跡となっています。
延命寺も刑場跡ですが、元は当山の境内で、常磐線の線路で分断されているため、昭和57年(1982)延命寺として独立しました。
モダンな山門の横に吉展地蔵尊。
吉展ちゃん誘拐殺人事件の遺族が奉納したお地蔵さまです。
本堂の壁に区登録史跡観臓記念碑。
明和8年(1771)杉田玄白や前野良沢らが小塚原の刑場で刑死者の腑分けに立会い、その後の「解体新書」の翻訳につながります。
大正11年(1922)腑分け立会いを記念して観臓記念碑が建立されました。
しかし、戦災で破損。
本堂の新築に伴い現在の場所に設置されました。